宇宙を感じ風になる

               

自然の中で養う集中力

登山は楽しみの一つですが他の意味もあって始めています。

今回はその事について。


若い時は健康で元気もあり病弱な人じゃない限りそれが当たり前じゃないでしょうか。

気力も十分で何かしようと思ったら臆さず出来るのも若さ。

それも含め周囲を気にせず自分のことだけを考えて、自由に行動できる時間や余裕がありますね。

問題は金銭面ですが結婚していなければ相手や家族の心配もないでしょう。

つまり、自分だけに使える時間やお金と体力があるのが独身の若い人になるかな。

私はいい歳なんですが何か一つするにも時間、体力面を考えるようになりました。

その反面、家族が元気でいてくれる事や何事もない事に幸せを感じてます。

世界を見渡してもいろんな問題がありで、普通に生きられている事に充足感があります。

以前に書いた体調不安がなくなり、すごく元気になり状態を維持して心身ともに鍛え感性を強くしたいと思うようになりました。

健康問題は周囲にも迷惑がかかるので現実的になります。

もっと切実だったのは災害や戦争が頻発する時代で、生き抜く事を意識したのもあります。

私が元気でいなくてはと。

元気であれば家族や周りの人と協力して、これからの時代を乗り越えやすくなるのではと。


他の理由に家族といると私が一番のんびりで頼ってしまう部分が多いのも。

困難な時に右往左往して、つい弱音を吐くのも私じゃないかと思ってました。

そんな自分を変えたくて。

 

もう一つ期待は散歩などの自然散策で自分の状態を整えてるのですが、登山はその状態に入りやすいです。

以前に書いてますが自然に大きなリラックス効果があり、そのせいか不思議な高揚感を得て山の中だと終始とにかく元気になります。

登山は登りでも下りでも険しくなると一歩を進む時にとても集中する場面が多いです。

単調な登りはとても辛くて忍耐力も。

どこをとっても感性を養いたい自分にはピッタリでした。


低山から再開してる登山。

自立心と冒険心で新たな自分に出会いたいです。

 

 

 

 

 

 

 

雪山の低登山

都内ではもう桜も終わりを迎えてますね。

北海道もそろそろ桜の季節ですが、今回のブログは先月に市内の雪山の低山へ登山をしてきた事について忘備録として。

登った山は難易度も高くなくよく登山する人の多い山。

初挑戦の山だったのですが人の足跡がしっかりあって登りやすかったです。

頂上付近が急登できつかったですが登りきると景色が良くて爽快でした。

去年から徐々に始めた登山は子供の頃に親に連れられて行ったのも理由ですが、心身を改めて鍛えたいという思いからも。

山に入ると体力、精神面も含めて自分しか頼れるものがないです。

荷物も万全にしコースの予習もして体調ももちろん整えておく必要があります。

天候や疲労度合いによっては、どんなに進んでても引き返す判断も大事。

安全な道に見えても足場が悪いところも多く気の緩みがけがにも繋がるんですよね。

どんな簡単そうな登山道でも危険があるような緊張感と真逆の自然の美しさ、自分を試されるような厳しさがあります。

結果がはっきり出るところも魅力です。

装備、体力不足なんかも登ってるとわかるので、時に判断ミスを痛感させられます。

それらは頂上に登った時の達成感や爽快感が忘れさせてくれたりもしますが、下山後は反省点として残ります。

山からはいろんな事を教わります。

登山をしていていいなと思うところは他にもあって、年齢関係なく熟練者の方がいる点です。

私より若くても年上でもしっかりと慣れたかんじで登られて、日頃から鍛えられてるのがわかります。

年配の方はいろんなコースを経験されて、時間のよみも体力面もそうだけど凄いなと思わされます。

山でそいういう人たちに出会うと自分も頑張りたいなと素直に感じます。

 

人以外にもお花や小さな生き物との出会いもあり、山は魅力いっぱいです。

今年はどのくらい登れるだろう。

 

 

 

 

 

生き物と不思議な思い出

暖かくなるといろんな生き物が活発になりますね。

去年に出会った様々な生き物を思い出とともに。

去年、野鳥以外で一番最初に出会ったのはカゲロウの亜種でした。

日付を見ると4月11日で、庭に自生しているギョウジャニンニク(山菜)を採りに出た時にいつの間にか腕に乗っていてどこから現れたのかびっくり!

北国の4月にカゲロウなんてと驚きましたが、大きな目が可愛いかげろうとの儚い命の出会いでした。

お次はヤマメとドジョウ。

ヤマメは小さいので稚魚です。

水の中の生き物は見つけてもスマホで写真を撮るのが大変でした。

珍しいトンボにも出会いました。

トンボの王様オニヤンマと、羽がオレンジ色で体が水色のとても優美な姿のカワトンボです。

ニホンカワトンボの美しさは別格で息を呑むほどです。

トンボを見つける時っていつも不意で、この二羽も「珍しいトンボ?!」と思って急ぎ足で進むと目の前にいるようなかんじです。

オニヤンマは気づかないうちに近くにいて思わず踏みそうになり本当に驚きました。

かなり体が大きくて、とまるところにも一苦労の様子。

ところで、とんぼって何かしゃべるみたいなしぐさをするって知ってました?

トンボを見ていたらずっとカチカチカチって音を鳴らしていて口を動かしてました。

飛ぶ時に音を鳴らすそうですがとまってるトンボです。

観察していて面白かったです。

あと不思議な体験で、ある日バスに乗り最後部に座ったらトンボが羽音をたてて車内の私の後ろをしきりに飛んでるのに気づきました。

「大変、どっからか入ってきて外へ出たいんだ」と思い自分が降りる終点に着いたら逃してあげようと。

車内は満員で私以外にトンボに気づいていいはずなんですが、誰もそのトンボを気にする様子がなく全く後ろを振り返らない。

トンボはバタバタと私の座る後部座席後ろの窓付近を、音をたてながらずっと飛んでるのに誰も気にしない様子。

変だな?と思いながらも、終点に着いたので捕まえて逃がさなきゃと思って振り返り探してもトンボがそこにはいなかったという事がありました。

トンボが途中で外へ出られないかと、ずっと気にして降り口方面を見てましたが外へ出たのもなかったです。

バスの降車後に外から確認したくて慌てて後ろに回ろうとしたら、ちょうど近くの信号が変わってバスが目の前で停車。

ロータリー内で止まったバスを横断歩道を渡るふりをして、後部座席ぐるっと見ながらトンボを探しましたが、やっぱりいなかったです。

車内ではスマホ写真が撮れなかったので、横断歩道から降りた時のバスの窓を撮りました。

バスの車内で消えたトンボは去年の凄く不思議な出来事の一つでした。

他にもトンボに関する不思議な事はあるのですが、機会があればいつか。

 

写真の生き物以外、いろいろ出会ってますが長くなりそうなのでこの辺で。

今年も既にいろんな生き物と出会ってるので、また書けたらと思ってます。

 

 

自分の還るところ

学んできた神秘的な事を一人で深めたいと思った時、既定路線を外れるような気持ちがありました。

ただ、道を選んで進む時に確かに一つの型のようなものから離れるけど、私自身としてはそれまでと一切変わらないという確信もありました。

私自身にくるかすかなインスピレーションや、身の周りで起きる良い出来事などはそれまでの学びの場を離れてからも起き続けました。

 

以前にも触れてますが「これは・・・?」と思う不思議な出来事を学ぶ場をまとめてる方にお伝えしたのですが、一方的に遮断されるようなかたちに。

「仕方ない、何かが私に起きてるけど自分で解明していこう」と思いました。

 

だけど解明するってどうやって?

そう考えた時に『あなたが経験した地球上のものを全て生かして』そこでも、やはり実態のつかめない声がしました。

ということは?と思った時に過去に経験したり縁があって好きな分野があったはずと思い出します。
そこからいろんな能力の先生方に会っていく事になりました。

『あなたが経験した地球上のもを全て生かす』って凄く良いきっかけを与えてくれた言葉で、視野を広くもって行動するのに繋がりました。
その声がした時に内心「たいした経験もしてないしなぁ・・・」と思ったんですが、冷静に考えると何かしらはあるもの。


全てと言っても気をつける事がありました。

嫌な予感、ネガティブな気持ちになる事はしない。

何かするなら出来る範囲で無理をしてやらない、していかない。

そして何においても最終的に強い依存状態にならない事。

姿勢、気持ちはいつも平たくバランスがとれてるかは重要でした。


認識としてあるのは、一人になって何を学んで経験しても必ず自分が還っていく決まった目に見えない心の居場所のような存在です。

そう私が焦点を合わせて生きている場所。

そこがいつもぶれずに自分の中にあるので、何に触れても基本として重心となるところへ戻っている、または戻す感覚があります。

それが宇宙のどこかのような気がしてます。

そう感じて生きています。

私がいつも戻る場所がある事が私が私として生きるゆえんでもあって、離れる事のできない大切なものになっています。

もし生きていて道が塞がってると感じた時、冷静に何が出来るかを考えていってください。

あなたの経験した全てを思い出し脱していきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

虹を見る時

人間関係に悩んでいた時期があったと書いてますが、その時に自分に起きた事の一部を書こうかと。

その時期は人生の転機のようなもので約一年間くらい辛かったですが、凄く不思議な経験をいくつもし、出会いにも恵まれ宇宙を本格的に独りで学ぶ入り口に立たされました。


一番きつかったのが権力のある人主導でいじめみたいのにあったんですが、私がいない場で言ってることが入ってきてしまう事です。

私を口汚く罵り、蔑み、周囲へ嘲笑に晒しているのが、その場にいないのにわかりました。

かなり支援し応援してきたのに本当にショックでした。

地獄の苦しみでした。

 

この時に人生で味わった事のない我慢や忍耐を経験します。

冷静さを保つのが大変でした。

 

一方でその事を忘れさせてくれる様な美しいものに出会えたり、宇宙という私の信じるものの垣根を超え能力ある方達から心を救い上げるような助言をもらっています。

それ以外にも人の持つ神秘的な能力にもたくさん触れてかなり勉強になり、接して下さった方々に感謝の一言です。

全て人生が一転するような体験でした。


世の中にはいろんな世界観や宇宙観があるのを体感として認識。

その視点から自分と分野が違っても相手を尊重しよう、認めよう、そうすれば争いがなくなると思うようになりました。


私に酷い仕打ちをした人に対しても今は等しく思ってます。

この人生の苦しい時によく出会っていたのが虹です。

出かけた帰り、買い物しようと歩いてる時、海沿いの道を車で走ってる時、自然散策をしに出かけた時などなど。

写真の太陽環も庭の畑で作業してた時に出たもので、よく見ました。

一番びっくりしたのは、車で走ってる時に大きな虹のアーチの下をくぐり抜ける事があったのですがその時に虹の付け根が車の中に入って見えた時です。

助手席に乗ってたのに、あまりの壮大さにあっけにとられて写真に撮れませんでした。

今思うと残念!

こんなに虹って見るもの?と思う一年でした。

私が自然界で出会う大好きなものが虹と彩雲と太陽環と愛らしい生き物です。

それらに苦しい一年を通して出会えた事は何よりも嬉しく励まされ幸せな出来事でした。

最後の写真は夕方に外を見たら家の前に出た虹と、長沼町のタンチョウのです。

虹はうっすらと写ってますが家にいてもそこに虹が出るんだと思いました。

去年に遠くからだけどタンチョウが見れて感動でした。

今年はスマホでたまたま写真が撮れました。

タンチョウを呼び戻す会の長沼町の皆さんにも感謝です。

遠くへ行かなくても奇跡はすぐ近くで起きる。

そう思うようになりました。

 

そして虹をよく見る様になったら人生の転機かも。

 

 

 

 

宇宙観を考える

前回記事「私を救った宇宙観」の続きです。


前の記事タイトルの宇宙観ですが今までのブログで触れてます。

率直に書きたいのですが、範囲が大きくて上手く表せないです。

物理的宇宙も足元の現実的な暮らし、自然、地球上、人間も宇宙の中に存在しています。

簡単に書くとあくまでも大きな範囲に限りますが、最終的に拡大、拡がりの性質を持つのが宇宙ではないかと思ってます。

滅びる為に何かが生まれるとしたら、生まれる意味や必要性に疑問があります。

滅びを経験する為という意味でも、やはり大きな意義を見いだせないです。

拡大する為に何かが生まれ宇宙を形成してるのなら、そのパターンも過程も様々では。

星が誕生しバランスを保ちながら存在する為に何らかの学びや試練があったり、または誕生と同時に維持状態が半永久的に備わっていて存在出来てるなど。

拡がりをもつ性質があるのが宇宙だとして、その拡がり方や過程で経験する事などが宇宙全体として大事ではないのかと。

他方、拡大の途中では消滅や縮小もありうる可能性も。

おそらくバランスをとる為かバランスが崩れた時にそのような事が起きるのではないでしょうか。

単に無から宇宙が始まっているのなら有へ拡がってるのではと思います。

宇宙が拡がりながら存在するのを根底にするなら、私自身の生き方に落とし込んだ時にも何かを気づいて学び、経験して拡がりを持って生きていたいなと。

つまり成長するという事。

そのあり方を考えた時により良くなんですね。

破滅的、滅亡的ではなくより良く存在してたいんです。

人類全体にもそれを望んでいます。

宇宙観を書くとなるととても大きく、書いてる事は私の持つ宇宙観の一部です。

本当はもっと別な事を書こうと思ってましたが、今回は自動的赴くままに任せました。

 

私の宇宙観は宇宙の根源的なものでもあり、沿うように生きていると何らかの答えや結果が出たり返ってくるのを日常で感じてます。

私と似た考えを持つ人、更には地球外でも同じ感覚の星の方々がいらっしゃるのではとも思ってます。


かすかなインスピレーションの元を考えた時やこのブログを始めるいきさつ、私に起きる事、現状を含めても自然とどこか宇宙意識に影響を受けてると感じてます。

 

 

 

 

 

 

私を救った宇宙観

ブログを始めた事もブログで書いてる事も今までほとんど人に話していません。

話してきてない分、ここでは凄くいろんな事を書いてます。

他の人は私以上にいろんな経験をしているか、逆に同じ経験をした事など全くない可能性があります。

自慢やマウントをとるのが嫌だと思い、経験や知っている事もあまり喋らず知ってても知らないふりをするのも多かったです。

その方がスムーズで相手がいろんな話をしてくれたりもあるので。

ここ一、二年でいろんな事が良く変化していき、あまりに良くて何が起きているのか困惑もありました。

一方でその変化自体と別に気づいてこなかった事などに、しっかりと向かい合わなければなりませんでした。

いい自分、未熟な嫌な自分にも逃げず開き直らずにずっと向き合ってます。

なぜこんな変化が起きたのか、何を求めて生きていたのか探る必要があったからです。

自分を知っていくうちに、案外といろんな経験をし全く出来ないてないと思っていたのがそうでもなかったと。

自己肯定感が今まで少なかったと認識しました。

勘は鈍い方ですが、ある意味では鋭い部分もここ一、二年で知っていく事になります。

ただ、いつも鋭い訳ではなく明日の天気すらわからないです。

勘違いも多いですが全くそうとも言えない時もあってです。

 

私と同じ経験をしている人がいるんじゃないかなと思ってます。

視野が変わって、今のここを含めた宇宙という範囲をひろく見つめて生きている実感が続いている人。

そんな事を思ってます。


良くなっていった全てのタイミングが、今まで学び意識してきた宇宙を独りで探求し始めてから。

ブログを始めてからは更に内面も生活も落ち着きました。

去年の春頃まで人間関係で酷く悩む事がありました。

平和をスローガンにしている場でこんな事が起きるのかと思いましたが、その間もずっと不思議な事、良い前兆が起き続けてました。

私を励ます様な出来事だったので嫌な事があってもめげずに過ごしていけて、人間不信にならずに自由に人と付き合えてます。

 

信頼と経験としてあるのは焦点を合わせて生きている宇宙が私を一切、裏切る存在じゃない現実。

焦点を合わせ続け、私自身が忘れたり背を向けなければずっと私の中に拡がり続けるものを感じてます。

それは私の希望に。


強い実感と共にその宇宙が私の生きる指針になりました。